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転校生(2) [アーカイブ]

僕の父親は警察官でした。

警察官や、公務員・大手の会社や銀行マンなどに
必ずついてまわるのは、引っ越しだろうと思う。

母の生まれた地に一家でついた僕らを待っていたのは
雄大に流れる川の近くの、堅牢に建てられた
これまた、警察官専用の待機宿舎でした。

たぶんだけど、全部で18戸だったと記憶しています。
18戸は、私らが入ると、空いている部屋はありませんでした。

そこで起きたのが、学区外問題。

田舎だったので、家の近くを流れる川の向こう側だと
大きな小学校に入れるが

学区内の小学校はあまりに小さく生徒数18人(?だったかな)

さあ、どっちに入る?ってクイズかよw

大きな学校に入るには、それなりの理由を書いた
申請書を書かなければならない。

ふーん・・・
どうせなら友達が多いほうがいいに決まっているし
という感じのちょっとドライな「がきんちょ」だったので
大きな学校に行く!と宣言したのでした。

1年から6年生まで18人ってどんな学校だよ?
そんなのつまんないしと、少し顔を膨らませて
ふて寝をしていたのを思い出します。

小さい学校の子には悪いけどね・・・ぐらいは確かに思った?

4年生はその大きい学校で、始まりました。

新しい学期に転校してきたので
学級変えもあったせいなのか
あまり「転校生」という意識もお互いなかったのでしょう。

すごく、学校生活にスムーズに入り込んだという感じ。

僕はいわゆる早稲っ子で、
学級でも背が割といつも高いほうで
これは、幼稚園の時からずっとそうなのですが

学級だと、最悪でも後ろから3番目位の位置にいました。
まあ、今の身長は177CM位ですので
最近のもっと身長の高い人には当然、負けますw

でも、あまりにも背が低いと、なんか転校生って
ちょっと不利かな?とは思います。

僕の当時住んでいた街は、川が近かったと書きましたが
家からすぐのところに、ちょっと古いのですが、橋がかかっています。

そのまわりは、川に沿って桜並木が並んでいて
大きな公園もあります。
春先になると、それは見事な桜並木ができる場所でした。
夏になると花火大会が開催される場所でした。

とある日、野球のボールとミットを持って、待機宿舎の壁に向かって
一人キャッチボールをしていると、

おお!と声をかけてくれた人がいる

同じ待機宿舎の2年先輩でした。

君さ、ピッチャーとかやったことあるの?と聞かれたので
はい、3年の時、友達のチームでピッチャーをやってました。
と答えたら、またまた、おお!っと嬉しそうな顔をして。。。

そんなら俺とキャッチボールしないか?
となったわけです。

実はキャッチボールは小学2年の時に
父親がたまに警察学校のグラウンドで
ミットとボールを買ってくれて、投げて見ろ
と教わったのが最初。投げ方の基本は父が見本でした。

以来、ことあるごとに壁に向かって球投げや
友達と投球については、練習していたのが
3年に繋がっていたのです。

待機宿舎の声をかけてくれた人は16号室に
住んでいたので、名前では呼ばずに16号のあんちゃんと
あだなを勝手につけて呼んでいました。

すごく柔らかいフォームで投げ始めるのですが
だんだん、速度が増してきて
よっしゃ!今日の最速はこれだぁー
って投げ込まれると、手がしびれるw

今度はそっちの番だぞ!
って、いわれてやはりゆっくりしたフォームから
入ることを、結局見よう見まねで覚えるわけで
だんだんと、自分の球が速くなっていったり
するのがわかるようになりました。

その先輩は小学生を卒業すると中学校に入り
2年生の時にエースと言われるようになったとの話

カーブやシュート、果てはフォークの投げ方なんかも
教えてもらったけど、せいぜい覚えたのはカーブとシュート
でしたかねw

続く

転校生(1) [アーカイブ]

僕の父親は警察官だった。

警察官に限らず、公務員や大手の会社や銀行マンなどに
必ずついてまわるのは、引っ越しというものだろう。

前にも書いた気がするけれど、
小学校1年の終わりに、市内の別な街に引っ越したため
学区外となり、当然のごとく転校。

前に住んでいたのは街の中だったし
お寺も近かったので、遊ぶところを探す苦労はなかった。

移り住んだ街は、だだっぴろい野原がある場所で
警察学校の隣接地、いわゆる待機宿舎ってやつだ。

木造建ての同じような家が並んだ、警察官達がすむ場所だった。

家の周りを歩いていると剣道場があり「きぇーっ!」「チェストーッ!」
という奇声と、汗臭い男の人達が中に見えて圧倒された。

そうそう、漫画の「武蔵の剣」そっくりという感じ。^^

2年生になって、自転車を買ってもらった、警察学校のグラウンドの
片隅を自転車に補助輪をつけてグラウンド3周以上を走って
練習した。4か目には、補助輪は取った。
転ぶと痛いけど、耳元を風が切っていく自転車は最高だ!と思った。

その頃、父は一念発起というか、仕事を終えても、毎日朝4時
位までだったろうか?後でわかったのは昇格試験に挑んでいたということ。

翌年父は試験に受かり、東京の中野にある警察大学に入学となった。

僕が小学3年の1学期を終えたころである。

東京へたつ列車に乗る時に、その時の担任だった男の先生に
車中で読んでください。と渡された本は「トムソーヤの冒険」だった。
ありがとう、先生。と手を振って別れた。

東京の新宿区、百人町のほんとに部屋が1つと狭い台所スペース
それからトイレ、風呂なしという、母と男兄弟3人が住むには
結構きついところだったなぁ。とあとになって見に行ってもそう思った。

田舎から来た子、というレッテルを貼られるどころか
なんかクラスの元気な子が、僕の手を引っ張って
転校生だっ!わっしょい!わっしょい!と学校中を一緒に走り回った
のが、意外に嬉しかった。東京の子っておもしろいなー、が素直な気持ち^^

とにかく、どこへいこうが、すぐに意気投合する友達が出来てしまう。
そんなこと、別に意識したこともなくて、言葉がなまっていようが
一緒にいて楽しければそれでいいという感じ。

東京でも盛大に遊びまくった。
少年野球はもっぱら、ピッチャー役で、投げる球がやたら早いから
というのが理由だった。野球のルールもよくわからなったが楽しかった。

前の学校の意外な子(かわいいなって思っていた娘)から、封筒に
ぎっしりと思いを綴ったレターをもらったことがある。

ちょっと、ドキドキしながら、読んでみると、そこは小学生で、
わたしは元気ですが、元気ですか?
誰君が寂しいっていってるよ。

担任の先生はこういう人に変わりました
などという日常を書いたもの。

返事を必死に同じくらいの枚数を書いて、あ”-疲れた・・・
と思ってしまうのが、本音。

だって、元の場所に戻ろうにもどうしようもない・・・

別れた子達はいい人ばっかりだったけれど、
自分ではどうしようもないや!
って、達観しているしかなかったですね。

明日、何やって遊ぼうかな?位しか考えていないんだもの。

犬と同じようなものです(笑

ただ、東京の友達からは、すごくたくさんの刺激を受けたのは
前にも書いた、バイオリンを弾く友達、やはり経済的に恵まれて
いて、面白いおもちゃを持っている子は、人気ありました。

あと、当時凝ったのは、メンコ遊びと、なんだっけ?
学校の校庭の片隅を借りて、小さいバレーボールを使って、
やった「ニノ」って誰か覚えている人いないですか?.
うちの娘の好きな嵐の二宮君じゃなくてw

東京で初雪が降った日に、小さい雪だるまこしらえて、
公園で友達と、雪合戦をして戯れた。

寒いのに、半ズボンが平気だったのは何故だろう?

翌年の3月、父が無事に警察大学を卒業し
せっかくの友達たちとも、別れの日がやってきました。

今度行く土地は、なんと母親の生まれ育った街の近くとのこと
僕もその街の産科医院で生まれたのです。

東京で仲良くなった友達との別れは、相変わらず前の晩まで
降った雪の積もった日のことでした。
よく会う公園で待ち合わせをして、よし見送り代わりに雪合戦しよう!

ということに決まり、男女混合雪合戦で、わーわーきゃあきゃあ、と
とにかく大笑いなこと満載で、別れの寂しさなど微塵もなく

じゃあな!また、どこかで会えるさ!ばいばーい!
と手を振り合いながら、さよならを言いました。

母の生まれた地で、どうなる?
なんて、もうすぐ小学4年生なる自分に考える余地などなかった。
ただ、起きてくる物事を受け入れるしかなかったのです。

続く

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